ミレニアムも既に遠き過去

半年ぶりに記事を書いたので調子づきましたので、少々雑感をしたためます
ひところ、知人バレの可能性回避のため閉鎖を装ってmixiに避難、その後復活した事例について「テキストサイト死ぬ死ぬ詐欺」などと一部で揶揄されていた九十九式ですが、先月十一月二十五日にフィナーレと銘打った更新で活動停止を明言しています。
ニュースサイトがリンクした数々の文言、移転騒動、偽閉鎖、と、センセーショナルな事象に目の向きがちな九十九式ですが、その実、九十九式は六年の更新期間の大部分に渡って毎日更新を看板に掲げ「継続は力」をある意味愚直にに実践し続けた希有なページでもあります。
私などは宮本・ザ・ニンジャ氏の来歴にさほど明るくありませんが、九十九式と云うページが氏の人生に数々の分岐と影響を与えたであろう事は想像に難くない。
古参と読んで差し支えないであろうテキストサイトがまたひとつ更新を終えるのは淋しいものですが、コレも時の流れでありましょう。
ネットウォッチの最果てより、ささやかに慰労と感謝の意を表します。

賽の河原の石積みまたはサハラ砂漠の水撒き

驚きましたね。
おはら汁荒井氏からオレvs吉野健太郎 ガチンコネットバトル2のエントリーでリンクを頂戴しました。
リンク先をご覧頂ければわかりますが、連邦吉野氏の突発性ネットバトル病が荒井さんに向けて発病した模様です。
模様です、と書くのは私が吉野氏のページを参照しておらない為です。
では原文に当たることが必須であるネット言及をしながら何故吉野氏のブログを参照しないかと云うならば、おはら汁のエントリから察するに苦労して読み解いても労力の無駄であろう事が容易に推察できる為であります。
(吉野氏独特の文体は、日本語として読むには難解に過ぎます)
荒井氏に於いてはネットバトルなる行いの意義すら見いだせない空しい戦いとなるでしょう。

ネットに限らずあらゆる論戦には発言の信憑性にかかる担保の増減と云う報酬が付帯します。ごく単純化すると、論戦に勝利した者の言葉は信憑性を増して論者の発言力が強まり、敗者には逆の現象が起こるのです。
では、仮に荒井氏が論戦に勝利し荒井氏の発言力が強まり吉野氏のそれが弱まったとして、荒井氏はその結果を労力に見合う報酬と捉えることができるのでしょうか。
現に荒井氏は「連邦に何か書く」と云う脅し文句はもはや武器足り得ない、と、ご自身の認識を示している。
下がり尽くした評判はそれ以上下降することはないのです。
また、荒井氏は要求しているWeb状の謝罪が通れば溜飲が下がるのでしょうか。私にはそう思えません。
(但し、謝罪を経緯と一緒に連邦に上げさせると云うケースについてのみ、連邦に記事を書くという行為に自負のある吉野氏にいくばくかのダメージを与える効果があるかもしれません)

ネットウォッチ系列のページとしてはより激しい展開を期待して煽りなど入れるべき場面なのでしょう。しかし私とて亀田−ランダエダ戦より見応えに欠けそうなバトルを追うほど物好きでもないのが実状です。
空しい争いはお止めになった方が宜しいのでは、と見ますが如何か。

なお、文中に時折出てくる「精神を病んだ荒井氏友人の細君」と云う人物については、例え簡単に想像が付いたとしても何もいわずに居るのが大人の配慮なのでしょうかね。
ざっと見る限りおはら汁コメント欄の住人たちは皆紳士ですな。

私に巣くう根深い麻草フィルタ

どこかのホームページが何かについて語るとき、語り手が誰であるかと云うパラメタは結構大事です。
語り手に対して閲覧者が抱えるイメージによって、語られた内容が担保されているかのような錯覚を持たれることはいやはや大変多い。
現役のサッカー選手/グラビアアイドル/政治家/街頭インタビュー……etcが全く同じ内容の意見を今期ワールドカップ代表について語ったとして、それらがどのように受け止められるかを考えてみたらおわかり頂けるのではないでしょうか。
論そのものの正しさとは別に、その語り部が誰であるかと云う評価は厳然と存在しています。
今更何をいっとるか、と一笑に付されそうな話ですが、敢えて書いておかないと何故かインターネットの言論では書く側から錯覚されがちな要素なのですね、この点。
この数日、id:screammachine 麻草氏がなにやら 吠えて おいでのようですが、参照リンクも踏まず書かれた内容について特に深い興味も覚えずざらりと眺める薄い閲覧者のポジションで見てみますと、"あら? また麻草氏が誰かに絡んでいるのかしら?" と見えてしまうものだなと。
私の場合に限ればですが、麻草氏の怒りは独特の(残念ながら私にはその主張の大部分が理解しがたい)超理論による瞬間湯沸系沸騰である、と云う思いこみがあり、つまり論の正当性とは別に"今回もまたほとんどの人にしてみたらどうでもいいことで針小棒大に怒っているのであろうな"のようなフィルタがあらかじめかかっている訳なのです。
ナンシー小関なる人物については特に何の感慨もありはしませんが、なにかおかしな法案が国会で通ろうとしているとき、看過できぬ社会不正義がまかり通ろうとしているときにそれら情報へのファーストアプローチが麻草氏のサイトからであったときは少々私にとって注意が必要であるなと思われます。
麻草氏が斯様な構え方をした閲覧者まで意識する必要は無論あるわけもなし、あくまで私の問題ですが。